時習の歌
校歌「わが時習館」
- 作詞:金田誠一
校歌「わが時習館」ならびに応援歌「若き力」の作詞をされた。
- 作曲:川崎容子
「校歌の作曲は夏休みの宿題でした・・・」[写真中央](1998年同窓会東京支部総会にて)
- 歌詞:
見よ、濃緑の丘の上
照る日のもとに高鳴りて
時習の旗のひらめくを。
これぞわが胸、わがいのち。
波風あらき世を生きて、
樹てし文化に誇あり。
ああ、ああ、母校。
わが時習館。聞け、若人の群の上
遥けき夢をたどりつつ
真理にすすむ足音を。
これぞわが友、わがすがた。
新なる代をひらかんと、
築く歴史にほまれあり。
ああ、ああ、母校。
わが時習館。いざ、永劫の星のもと
まなびの城の園ひろく
自由の花の色まさん。
これぞわが道、わがちかい。
世界に聖くかよわんと、
結ぶ決意にちからあり。
ああ、ああ、母校。
わが時習館。 - 校歌「わが時習館」の由来
昭和23年4月新制高等学校の発足に伴い豊橋中学校は高等学校に移行して県立豊橋高等学校となり、次で豊橋時習館高等学校となった。 翌年4月学校再統合により、学区制の下、男女共学の総合普通高校として再出発した。
戦後の混乱の中で、学校自体も大きな曲り角にさしかかっていたが、これを深く反省した生徒らは、24年5月学年大会を開き、続いて6月には生徒会による全校生徒総決起大会を開いて校風刷新問題を討議、その決議事項の一に校歌制定の件を加えた。 校歌の合唱が生徒の士気を振興せしめるに意義ありと考えたからである。
その経過については、昭和25年9月l0日付の学校新聞『時習』第25号に、当時の校歌制定委員会の報告があるので全文をのせる。
昨年(24年)6月、全校生徒総決起大会が開かれるや校歌制定が決議され、文化常任委員より成る校歌制定委員会が発足、これが実現に努力し、今年l月金田誠一先生の「見よ濃緑の…」を撰抜推薦、議会を通過したので、ついで作曲を募集した。 応募数約350曲中より優秀曲3曲ABCを撰び交歓会(6月)に発表、同月末に生徒の投票を得てA曲(川崎容子作曲)と決定、ここに校歌の誕生を見るに致った。
其の間、一部には専門家に補修を依頼せよとの意見が抬頭したが、制定委員会は慎重討議の結果、全会一致でこのまま校歌に制定することに決定した。 即ち、
- 時習館高校の一員の独力によること、
- それにともなう校歌の意義、
を根本的見解として校歌の最上の価値と認めたからである。
省みれば校歌募集に着手してから一年有余、ここに校歌制定の記念すべき一頁を記したのである。 今や生徒の熱心なる歓迎を前に、校歌制定委員会は一刻も早からんことを期して普及に努め、完備せる譜面が生徒全般の手に行き渡るのも近日中であることを報告する。
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時習館応援歌「若き力」
- 作詞:金田誠一
- 原曲:中村功
- 作曲:内藤貴美子
[写真](1998年同窓会名古屋支部総会にて)
- 歌詞
若き力 むすぶ 時習の丘
ああ青春の 栄光 罩めて
伝統の旗 つねに新し
日ごろの腕を 日ごろの脚を
たたかわさんかな 時は今ぞ
往け、わが選手、正々と
その意気 すでに 敵を呑む
時習 時習 時習 時習
われら時習館高き凱歌 あげよ 大空の下
ああ精鋭の 闘魂 燃えて
練熟の技 つねに逞し
母校の栄えを 母校の明日を
かがやかさんかな 時は今ぞ
見よ、わが選手、溌刺と
その意気 まさに 天を衡く
時習 時習 時習 時習
われら時習館(フレーフレー) - 応援歌「若きカ」の由来
この頃、スポーツ各部の全国進出著しく、生徒の中に力強い応援歌の要求が高まってきた。 昭和26年全校生徒・職員から募集した詩の中から再度金田誠一先生の詩「若き力」が当選した。
この年の秋、本校野球部の活躍目覚ましく、春の甲子園出場の呼び声が高まる中で、内藤貴美子先生が応援歌の作曲を完成された。 昭和27年、昭和28年と春の甲子園大会には、スタンドにわが校歌・応援歌が高らかに鳴り響いたのである。
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豊橋中学校校歌
- 作詞:葛原しげる
- 作曲:弘田竜太郎
- 歌詞:
東海旭は照る大和島根
参州の野は歓喜に満ちて
自学の鐘の高鳴れば
向上の歌朗らかに
希望の嶺は唆しくも
友よきはめでおくべしや
楽し楽し豊橋中学健男児
我等! 我等!!黒潮とゞろく太平洋
逆巻く涛も男みて越えむ
至誠の風に帆をはれば
剛健の船ましぐらに
理想の岸は遥けくも
友よ渡らでおくべしや
楽し楽し豊橋中学健男児
我等! 我等!!歴史は古き母校の栄誉
祖田の光輝新に増すと
時習の旗のひらめけば
溌剌の意気天を衡き
永劫若き眉昂る
友よ奮はでおくべしや
楽し楽し豊橋中学健男児
我等! 我等!! - 豊橋中学校校歌の由来
昭和の初期、自由な社会風潮を反映して、巷では「籠の鳥」「波浮の港」「酒は涙か溜息か」などの歌が流行していた。 純真無垢な中学生にはおよそ不釣合な挑発的な歌ばかりで、まじめな生徒たちは旧制高校寮歌や大学の応援歌を好んで歌ったようである。 この頃豊中の歌としては「三州の野に」があっただけである。
昭和7年に豊橋中学校長として就任された高山孫三郎先生は、豊中生のための行進歌を所望され、職員に呼びかけられた。 これに応えて早速金田誠一先生作詞・跡部晃先生作曲による「行進歌豊中健男児の歌」が生れたのである。 意を強くした高山校長は豊中校歌の作成を思い立たれ、その草案作成を金田先生に命じられた。
高山校長は、東京高師在学中から親交のあった葛原しげる氏にその草案を送り、校歌の作成を依頼した。 葛原氏は作曲家の弘田龍太郎氏と組んで多くの歌を作っておられたので、校歌を依頼するには誠に好適であったと考えられる。 葛原氏は童謡作詞家として当時の重鎮、弘田氏は当時の日本の代表的作曲家の一人である。
かくて豊中校歌が完成し、昭和8年11月豊中創立40周年記念式典の式次第の中に校歌斉唱が組み入れられた。
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応援歌 三州の野に
- 作詞:満井信太郎
応援歌「三州の野に」の作詞をされた。[写真]
- 歌詞:
参州の野に霊気あり
凝りて我等が骨となり
発して我等が意気となる
健児六百いそしみて
文武を磨くその中に
粋と呼ばるゝ野球団打振るバット雲を呼び
走塁風を起すなる
敵勢いかに猛くとも
苦心十年先輩が
踏固めたる校庭を
その蹂躙に委ねんや懸軍十里スパイクに
敵の堅と蹴破れば
獰猛の野次影ひそめ
我を讃美の閧の声
あゝこの栄を想ふ時
われらが胸の躍るかな毒蛇とうねる大魔球
矢を射る如き直球も
長棍カッと音すれば
敵鉄桶の守備乱れ
無人の境を行く如き
走塁盗塁ホームイン雲に人るてふ大飛球
砂を噛むなる熱球も
水もらさじと固めたる
健児の守備を破るべき
伏屍累たり一塁を
かすめ吹く風腥さし東海五県十余校
功を競ふ決戦に
勇者の中の勇者よと
誉をあげし十年の
その光栄を想ふ時
健児が腕に力あり - 「三州の野に」の由来
第一高等学校野球部部歌に「天地の正気」(明治36年山内冬彦作詩)というのがある。 これが「三州の野に」の原曲である。 日本の野球の元祖一高野球部全盛の頃、一高に学んだ満井信太郎氏は、ご自身も明治36年第l3回記念祭寮歌の詩を残しておられる。
満井先生は明治42年から大正l0年まで本校に奉職し英語、国語、漢文、修身等の指導に当たられた。 教科外活動でも学芸部の指導をはじめ、校内球技大会には職員チームを作り率先して出場したり、野球部の遠征試合にチームと共に応援に出かけるなど、生徒にはなじみの深い先生であったという。
応援歌「三州の野に」は大正2年l0月発行の四中校友会誌に満井先生作歌として紹介されているから、それ以前の作であることは間違いない。 当時、本校野球部は東海5県(愛知・静岡・岐阜・三重・滋賀)l3校のチームの中にあって、愛知一中と覇を争っていた。大正5年には愛知県代表として全国中等野球選手権大会に出場している。
「三州の野に」は今日まで、歌い継がれ、愛唱されてきたが、曲も詩も永い年月の間に誤り伝えられ、人によって覚えている歌に微妙な差違がみとめられる。 ここに録音したものは、曲は最近になって、内藤貴美子先生が、古い同窓生の記憶をたどって採譜されたものであり、詩は時習館同窓会名簿からとったものである。
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金田誠一 | 川崎容子 | 内藤貴美子 | 満井信太郎 |
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演奏を聴く
- 校歌「わが時習館」(1番のみ 1.5MB)
- 時習館応援歌「若き力」く(1番のみ 1.6MB)
- 豊橋中学校校歌(1番のみ 1.2MB)
- 三州の野に(1番・2番のみ 1.2MB)
- 演 奏/東京混声合唱団
ピアノ/坂 井 和 子
指 揮/内 藤 貴美子
太 鼓/後 藤 年 宏