宝歴2年(1752)
「藩校時習館」創設。位置は城内八丁小路の武家屋敷地内(現在、市公会堂前庭に「藩黌時習館址」の石碑。)
校則「定」(11条)の冒頭「武家の芸術、弥懈怠なく就業致すべきこと」とある。
明治5年(1872)
前年の廃藩置県をうけ「藩校時習館」廃止。
明治26年(1893)
三浦碧水らの有志により、「 私立補習学校時習館」 設立。藩校の精神を継承すべく「時習館」扁額を同校の玄関に掲げ、幕末、藩校改革に力を注いだ児島閑窓を教授に迎えた。
これらの事実に拠り、本校はこの年をもって、創立紀年とする。
明治28年(1895)
町立となり「豊橋尋常中学時習館」と改称。
石川 一 初代校長。
明治29年(1896)
校旗制定。
松浦 寅三郎 第2代校長。
豊橋町新川の新校舎へ移転。
明治32年(1899)
大野木 克豊 第3代校長。
明治33年(1900)
県立へ移管。「愛知県第四中学校」と改称。この年、新校名で第1回卒業生(23名)
山崎 新太郎 第4代校長。
明治34年(1901)
「愛知県第四中学校」 を 「愛知県立第四中学校」と改称。
明治38年(1905)
校舎新築敷地として、豊橋市大字中柴字道六および西の又、大字花田字黒福および角田にわたる総坪数15,000坪が決定。
大正11年(1922)
校名を「愛知県豊橋中学校」と改称。
大正14年(1925)
校長 山崎 新太郎、25年にわたる在任を終え、退職。
石原 即聞 第5代校長 。
昭和7年(1932)
高山 孫三郎 第6代校長。
昭和8年(1932)
創立40周年記念式典挙行。
校歌 ”東海旭は照る大和島根・・・”制定。
昭和12年(1937)
北野 喜洋 第7代校長。
昭和16年(1941)
久野 新松 第8代校長。
昭和19年(1944)
第2次大戦の戦局悪化により、豊川海軍工廠その他へ学徒動員。
昭和20年(1945)
豊橋市が大空襲をうけ、市街とともに本校の校舎も全焼。
豊川海軍工廠が大爆撃を受け、学徒動員中の本校職員2名および生徒37名が殉職。
愛知県立豊橋第二中学校の校舎を借用、第二中学校との二部制によって全学年の授業を開始。
昭和21年(1946)
豊橋市富本町(元豊橋陸軍予備士官学校砲兵隊跡)に移った。
┃豊橋中学校校歌┃
作詞:葛原しげる
作曲:弘田竜太郎
歌詞
東海旭は照る大和島根
参州の野は歓喜に満ちて
自学の鐘の高鳴れば
向上の歌朗らかに
希望の嶺は唆しくも
友よきはめでおくべしや
楽し楽し豊橋中学健男児
我等! 我等!!黒潮とゞろく太平洋
逆巻く涛も男みて越えむ
至誠の風に帆をはれば
剛健の船ましぐらに
理想の岸は遥けくも
友よ渡らでおくべしや
楽し楽し豊橋中学健男児
我等! 我等!!歴史は古き母校の栄誉
祖田の光輝新に増すと
時習の旗のひらめけば
溌剌の意気天を衡き
永劫若き眉昂る
友よ奮はでおくべしや
楽し楽し豊橋中学健男児
我等! 我等!!
豊橋中学校校歌の由来
昭和の初期、自由な社会風潮を反映して、巷では「籠の鳥」「波浮の港」「酒は涙か溜息か」などの歌が流行していた。 純真無垢な中学生にはおよそ不釣合な挑発的な歌ばかりで、まじめな生徒たちは旧制高校寮歌や大学の応援歌を好んで歌ったようである。 この頃豊中の歌としては「三州の野に」があっただけである。昭和7年に豊橋中学校長として就任された高山孫三郎先生は、豊中生のための行進歌を所望され、職員に呼びかけられた。 これに応えて早速金田誠一先生作詞・跡部晃先生作曲による「行進歌豊中健男児の歌」が生れたのである。 意を強くした高山校長は豊中校歌の作成を思い立たれ、その草案作成を金田先生に命じられた。高山校長は、東京高師在学中から親交のあった葛原しげる氏にその草案を送り、校歌の作成を依頼した。 葛原氏は作曲家の弘田龍太郎氏と組んで多くの歌を作っておられたので、校歌を依頼するには誠に好適であったと考えられる。 葛原氏は童謡作詞家として当時の重鎮、弘田氏は当時の日本の代表的作曲家の一人である。かくて豊中校歌が完成し、昭和8年11月豊中創立40周年記念式典の式次第の中に校歌斉唱が組み入れられた。
┃応援歌 三州の野に┃
作詞:満井信太郎
歌詞
参州の野に霊気あり
凝りて我等が骨となり
発して我等が意気となる
健児六百いそしみて
文武を磨くその中に
粋と呼ばるゝ野球団
打振るバット雲を呼び
走塁風を起すなる
敵勢いかに猛くとも
苦心十年先輩が
踏固めたる校庭を
その蹂躙に委ねんや
懸軍十里スパイクに
敵の堅と蹴破れば
獰猛の野次影ひそめ
我を讃美の閧の声
あゝこの栄を想ふ時
われらが胸の躍るかな
毒蛇とうねる大魔球
矢を射る如き直球も
長棍カッと音すれば
敵鉄桶の守備乱れ
無人の境を行く如き
走塁盗塁ホームイン
雲に人るてふ大飛球
砂を噛むなる熱球も
水もらさじと固めたる
健児の守備を破るべき
伏屍累たり一塁を
かすめ吹く風腥さし
東海五県十余校
功を競ふ決戦に
勇者の中の勇者よと
誉をあげし十年の
その光栄を想ふ時
健児が腕に力あり
「三州の野に」の由来
第一高等学校野球部部歌に「天地の正気」(明治36年山内冬彦作詩)というのがある。 これが「三州の野に」の原曲である。 日本の野球の元祖一高野球部全盛の頃、一高に学んだ満井信太郎氏は、ご自身も明治36年第l3回記念祭寮歌の詩を残しておられる。満井先生は明治42年から大正l0年まで本校に奉職し英語、国語、漢文、修身等の指導に当たられた。 教科外活動でも学芸部の指導をはじめ、校内球技大会には職員チームを作り率先して出場したり、野球部の遠征試合にチームと共に応援に出かけるなど、生徒にはなじみの深い先生であったという。応援歌「三州の野に」は大正2年l0月発行の四中校友会誌に満井先生作歌として紹介されているから、それ以前の作であることは間違いない。 当時、本校野球部は東海5県(愛知・静岡・岐阜・三重・滋賀)l3校のチームの中にあって、愛知一中と覇を争っていた。大正5年には愛知県代表として全国中等野球選手権大会に出場している。「三州の野に」は今日まで、歌い継がれ、愛唱されてきたが、曲も詩も永い年月の間に誤り伝えられ、人によって覚えている歌に微妙な差違がみとめられる。 ここに録音したものは、曲は、内藤貴美子先生が、古い同窓生の記憶をたどって採譜されたものであり、詞は時習館同窓会名簿からとったものである。
昭和23年(1948)
学校教育法施行で、「愛知県立豊橋高等学校」となる。
豊橋中学1~3年生はすでに前年から新制中学となり「 愛知県豊橋高等学校併設中学校」と称されていたが、この年「愛知県立豊橋高等学校併設中学校 」と改称。
学校統合により、「愛知県立豊橋時習館高等学校」となる。
校章を制定。
5年生は旧制最後の50回生として卒業のものと、翌年、新制1回生卒業に分かれる。
芝村 義邦 第9代校長。
昭和24年(1949)
学校再統合。
GHQの指示「男女共学・統合制・学区制」の三大方針で、本校全日制に 普通、家庭、商業、農業の4課程と定時制を設置。同時に成章高校高豊分校と蒲郡高校二川分校を本校の分校に変更。
昭和25年(1950)
熊谷 三郎 第10代校長。
愛知県立豊橋商業高等学校が新設され、本校の商業課程は廃止された。在席生徒は商業高校へ。
時習の歌「わが時習館」制定。
昭和26年(1951)
時習館応援歌「若き力」制定。
昭和28年(1953)
創立60周年記念事業挙行。
昭和29年(1954)
家庭科募集停止。
昭和31年(1956)
普通科の学区制は、小学区から大学区(三河学区)に変更。
校名を愛知県立時習館高等学校と改称。
講堂兼体育館が竣工。
昭和34年(1959)
定時制課程の募集停止。
昭和37年(1962)
農業課程の募集廃止。
緑化計画を策定。
昭和38年(1963)
生徒急増対策、13学級715名入学。
創立70周年記念式典挙行。
昭和39年(1964)
旧本館が火災により全焼した。
14学級770名入学。
普通教室第3棟(2階建10教室)が竣工した。
昭和40年 (1965)
70周年記念の緑化事業として、はんてん木並木の一部が完成(はんてん木80本、キョウチクトウ600本)。
理科棟(2階建、物理化学4教室)が竣工。
昭和41年(1966)
はんてん木並木が完成(はんてん木69本、キョウチクトウ300本)。ほかに疎林にシラカバ10本を植樹した。
昭和42年(1967)
プール完成
昭和43年(1968)
熊谷三郎、18年の在任を終え退職。退職にあたり”みずから考え自ら成す”の校訓を残す。
永屋 省三 第11代校長。
昭和46年(1971)
武道場完成。
教育工学棟完成。
昭和47年(1972)
高豊分校と二川分校の1年生が新設の豊橋南高校の家政科2年生となり、両分校の3年生は引き続き存続し在籍。
平賀 勝郎 第12代校長
昭和48年(1973)
高豊分校、二川分校閉校。
豊橋学校群第1群(本校と豊橋南高校)の最初の入学者選抜を実施。
創立80周年記念式典を挙行。戦災で焼失した校旗復元。「時習文庫」創設。
昭和50年(1975)
豊田 洋一 第13代校長。
昭和51年(1976)
学校群制度の最初の卒業生(28回生)。
昭和52年(1977)
保健体育最優秀校として文部大臣賞表彰。
昭和54年(1979)
木造の旧兵舎四棟を撤去(男子更衣室、卓球場、倉庫、便所)。
昭和57年(1982)
生田 實 第14代校長。
昭和58年(1983)
創立90周年記念式典挙行
イタリア総大理石づくりの正門(時習の門)建設。
昭和59年(1984)
小金 潔 第15代校長。
昭和61年(1986)
小金 潔 県教育長に転出。
伊藤 一彦 第16代校長。
昭和62年(1987)
全国学校緑化コンクールにおいて最優秀校、文部大臣賞受賞。
平成元年(1989)
複合選抜方式最初の入学者選抜。この新入試制度による普通科10学級が入学した。
平成2年(1990)
白井 正己 第17代校長。
平成5年(1993)
平井 眞一 第18代校長。
創立100周年記念式典挙行。
記念事業としてポセイドン像を体育館東側に建立。
南門全面改築。南門周辺植栽。
平成7年(1995)
松原 眞志夫 第19代校長。
平成9年 (1997)
小野田 章二 第20代校長。
平成13年(2001)
大河原 晧視 第21代校長。
平成15年(2003)
創立110周年記念式典挙行。
平成16年(2004)
愛知県土地開発公社より、44,105.62平方メートル取得。これで全敷地が県有地となる。
平成17年(2005)
鳥山 勇 第22代校長。
平成19年(2007)
愛知県総合教育センター情報教育豊橋所(土地5402.80㎡、建物1144.17㎡)所属替で受入。
平成20年(2008)
文部省よりスーパーサイエンススクール(SSH)の指定 (先進的理数教育の実施校)
平成21年(2009)
林 誉樹 第23代校長。
平成23年(2011)
4月、スーパーサイエンスハイスクール(コアSSH「海外の理数系教育重点校との連携」)の指定 。
英国セント・ポールズ、セント・ポールズ・ガールズ校と姉妹校提携を結ぶ。
平成24年(2012)
ドイツのオットー・フォン・タウベ・ギムナジウム校と姉妹校提携。
平成25年(2013)
新入生より、学年進行で新制服に移行。男女とも濃紺のスーツにネクタイ着用。
文部科学省から、スーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受ける。(H25~H29)
120周年記念式挙行。
平成26年(2014)
文部科学省から、スーパーグローバルハイスクール(SGH)アソシエイトの指定を受ける。
平成27年(2015)
川村 昌宏 第24代校長。
平成28年(2016)
スーパーサイエンスハイスクール(重点枠)の指定を受ける(H28、29)
平成30年(2018)
マレーシアのジッ・シン校と姉妹校提携を結ぶ。
文部科学省から、スーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受ける。(H30~H34)
平成31年(令和元年)(2019)
高畑 尚弘 第25代校長。
令和2年(2020)
新型コロナウイルス感染症の世界的拡大により、3月2日以降を臨時休校とした。(6月授業再開)
県教育委員会から、あいちグローバルハイスクール(AGH)の指定を受ける。(R02~R04)
令和3年(2021)
森島 日出夫 第26代校長。
令和5年(2023)
寺田 安孝 第27代校長。
県教育委員会から、あいちリーディングスクール(研究指定校)に指定される。
130周年記念式典挙行。
令和6年(2024)
文部科学省から、スーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受ける(R06~R10)